歌を忘れないお父さんの自信顔

そもそもは2ヶ月前、入校後にそれぞれが自己紹介した時にさかのぼります。

ご学友「めがねS」さんは、今後やってみたい企画を問われて「演歌の企画です。夢は演歌の作曲家です」と答えました。 それぞれ、ロック ジャズ アイドルなどと答えるなかで、異彩を放ってました。

訊けば「古賀メロディが好きなので」と、年齢に不似合いな答えにさらに混乱する。

「お父さんがギター弾きの流しをやっていたので」と、やっと、僕の気持ちが落ち着く返答でした。 で、にわかにお父さんに会って話をうかがいたくなりました。



2ヶ月経って、やっと実現。

昭和13年に山形県で生まれた松浦アキラさん。 子供のころから歌が好き、ギターが好き。 当時のことを想像すると、とんでもなくモダンな少年だったに違いない。 15歳の時、地元に岡晴夫が来て、その時の「逢いたかったぜ」がよかったと、僕はアキラさんの記憶力に驚きました。

昭和33年3月に上京。 ビクターの音楽学校に通いながら、夜に流しの仕事を始めたという。 昭和30年代といえば、「三丁目の夕陽・Always」の時代ですね。 貧しかったけど、こぞって高度成長に邁進した時代。

新宿を本拠地に、中野・赤羽・赤坂・神楽坂・築地とあらゆる盛り場がアキラさんの仕事場だった。

新宿だけでも、120人の流しがいたそうです。 高度成長期、おエライサんの了簡は、現代のチマチマした管理職とは違ったでしょうから、彼らの散財に浴したことは想像できます。

そして、流しには流しの矜持があった。 最低でも100〜120曲を3番までキッチリ歌えること。

加えて、酔客がお店にビールでもおつまみでもどしどし注文するように促す話術。 機嫌が良かった時代の、機嫌のいいチャンチキ。 その頃大人だったら、という悔しさが僕にはあります。



お話を伺って、にわかにUtubeで岡晴夫「逢いたかったぜ」を視聴しました。 感じたのは、トーマス・フリードマン先生の「フラット化する社会」。

古今東西のことがらは、時空を超えてすべてが「現在・ここで」入手できる世の中になったということ。古いとか新しいで価値が変化する社会ではなくなったということ。

アキラさん、Utubeに登場して歌ってみませんか?