風景を作るには忍耐力がいる
図書館の貸し出しカウンターには、横に、利用者から返却された本やCDを一時的に保管するキャビネットがあります。行くと「皆んな、どんなCDを聴いてるの?」と気になって、チラリと覗きます。
今回、借りたのはサティ。「4つの前奏曲」「星たちの息子へ」「ゴチック舞曲」。どれも聴いたことがありませんでした。
文学酒場「黒猫」でピアノのアルバイトをやっていたら、十字教団に誘われて専属作曲家になったサティ。曲は教団の儀式に使われた、とあります。
僕には「無音の音」に聴こえます。
You Tubeにはありませんから、おなじみのグノシエンヌを聴いてください。
NHK「プロの流儀」で、数寄屋大工の頭領・斎藤光義さんの仕事ぶりを見ました。
日本家屋の数寄屋づくりは、引き算の建築です。飾りをどんどんはぶく。これ以上はぶきようがない、たとえば茶室は、たった2畳で宇宙をつくる。
宇宙と感じさせるために、斎藤さんは徹底的に木材を吟味する。
杉の表面のへこんだ「えくぼ」を表情として活かす。とっておいた木材を、まさかりで割って、その木目を活かす。釘を使わず、ねじ組で柱と梁を交差させる。
それが、50年100年経ってから、まるで「なんの工夫もしていないような」自然の風合いになる。
「都市と自然」安藤忠雄著を読んでいて、同じ精神を感じました。経年変化を見越して建築する。
風景をつくる、ってことが彼の原点にあることがよくわかりました。
とにかく、最近の彼は植樹ボランティア、育英資金ボランティアの主人公で話題になるので、本業の建築はどうなっているのだろうと、不思議でしたので。
建築は、前提に敷地があります。「ここから、ここまで」に建てる。
ところが、彼は自分の建築には、「ここに、これが建つ必然性」が必要なんです。
すると、どうしても隣が気になる。隣の事情を配慮することが嵩じて、隣も作りたくなる。すると、そのまた隣も、となって、いつしか全体を構想することになり、思考は風景に広がる。
本では、「どんくさい自分ができる建築の方法」を語っています。
これがどれほど困難なことか。
僕は土地を持ってませんからお気楽です。けれども、1mmの敷地で争うのが人間。なぜこれほどに、と敷地内と敷地外で人は意識が変わるものですから。
行政区域も国境も、あらゆる境界は、争いのたね。
ですから、彼が施主に、そして隣地の所有者にプランを提案してきたことは数限りなくあったことでしょう。
彼の建築集ではなく、建築されなかった構想集を見てみたいです。
「私みたいに置き過ぎたらまずいけど(笑)、今の日本の若い建築家は、もうちょっとだけ社会に片足を置いたほうがいい」。
安藤さん、どんどん風景を作ってください。そこで、サティを聴きたい。