内蔵助殿の、叶えられた祈り
またまた、来ました、魚籃坂にある魚籃寺。隣の、長谷川弓具店もお変わりなく? 坂をどんどん登る。
スーパーのピーコックを右に折れて、高松宮邸前を通る。母娘が記念撮影中。左に行けば、芝高輪・泉岳寺へ抜ける裏道。
討ち入りの日は、四十七士の墓前に手向ける花と、お線香の煙がモーモー。これ、門前、市をなすほど人々が大挙して押し寄せますから、一回で懲りました。
偲ぶなら、今。
とはいえ、今回は泉岳寺に行かず、細川邸跡へ向かう。手には「古文書で読み解く忠臣蔵」吉田豊著。
時は元禄15年、12月14日。八ツ前より堀部宅に集結した面々は、寅の刻に吉良義央邸に討ち入り、みごと本懐を遂げる。
その時、青竹に挟み、表門に掲げた「浅野内匠家来口上」がこれ。
「内匠末期残念の心底、家来共忍び難き仕合せに御座候」だったから「共に天を戴くべからずの儀」に及んだ、と。
ドラマであるように、ほんとにあったんですねぇ。
そして、一行は回向院を出発し、元禄11年にできた永代橋を渡って、浅野家上屋敷、築地本願寺、新橋、三田・札の辻を通り泉岳寺へ。
ドラマどおりなら、町衆はフレディ・マーキュリーの気分だったでしょうか。
討ち入り後、赤穂義士は小グループとなって4家に預けられ、12月23日から始まった、幕府の評定。
17人を預かった細川家の記録では、2月3日に余興大会もやった。そして、運命の2月4日。「赤穂義人纂書」にある、切腹の図がこれ。
門扉が閉まった細川家屋敷跡。巨石が一つ。
壁に埋め込まれた黒石に「自刃せる義士左の如し」と、刻まれてます。
吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五衛門、小野寺十内、堀部彌
兵衛、赤垣原蔵・・・・。
四つ時過ぎより、まず内蔵助が切腹。七つ半時まで続く。もって瞑すべし。