昭和を問い続けて来た、正直な監督
いやぁ、文京区っておもしろいですねぇ。皆さんは、区報って読んだありますか?
普通、新聞にスーパーのチラシなどと共に折り込まれています。ですから、まとめて捨てるでしょ?
講演会の入り口でもらったのが文京区報。
・放射線測定器を貸し出します。
・生ゴミ堆肥づくりの集い。
・千客万来チラシ講座。
なんとなく、おもしろそうな活動。んで、
・キンボールスポーツ教室。
・交通少年団に入りませんか。
実体なんとなく不明の活動を、元気にやっている様子。
文京区民センターで篠田正浩監督の講演「私の映画、私の戦後」がありました。
大島渚、吉田喜重監督と共に松竹ヌーベル・ヴァーグの一翼。3人そろって、美人女優をかみさんにしている。
「血圧の大島」、「静寂の吉田」に対して、篠田監督は何でしょう?
登壇して、とても81歳には見えない血色。早稲田大学を退官して、福顔になったでしょうか。
14歳で敗戦を迎えるまでの勤労動員と、軍事教練の話から、ヒット作「瀬戸内少年野球団」の話題へ。
「アクユウです、と自宅に電話がかかってきました」。
「えっ、悪友はいっぱいおりますが、どちらの悪友でしょうか?」
原作の阿久悠さんから、映画製作の依頼。彼の敗戦は9歳の時。
軍事教練で切腹のやり方を教えられた14歳は、アメリカ軍が持ち込んだイン・ザ・ムードに明るさを感じた9歳と、8月15日の意味がまるで正反対。
天皇の「人間宣言」を裏切りと感じる世代と、ハーシーのチョコレートを無邪気に喜ぶ世代。5歳の差で、天地の違い。
監督は、断りました。
阿久さんが、篠田監督にこだわった理由を座席で考えてました。無邪気を撮れる人は、悲惨を知っている人だから?
「神社の石段を上ってしまう進駐軍のジープを見た彼は、共存できないでしょうか、と言ってきました」。
映画をご覧になった方は、夏目雅子嬢と子供たちの印象ばかり残ってますね? 僕も一緒。
ですが、監督はミズーリ号甲板での降伏文書著名のフィルムから始めました。そして、皇国史観の教科書を墨で塗りつぶす小学生たちのシーン。
そこから、活き活きした明るい生を描いていきます。
最終作「スパイ・ゾルゲ」にも触れて、戦後を語る。
300万人が死んだ戦争をあいまいにしてきた日本。「退官する時、学長に入試問題は現代史から出すように言ったんです。すると、早稲田は英語がしゃべれる大学になりたい、と返ってきました」。
薄いクリーム色のクルマを運転して会場を後にした監督は、あきらめのユーモアを残し、見えない風のように去っていきました。
「修羅の篠田」と、わかりました。