半世紀遅れで、無念に出会った

これ、何でしょう?

一輪挿しには違いない。けど、長さ約5cm。チッチャイ。

「なんて言うんですか?」と訊くと、「作者は『吊るし花器』と呼んでます」。

リサイクルガラスで、レトロな雰囲気の器・アクセサリー・照明器具の展覧会とあったので、田園調布駅近くのギャラリー「いちょう」に出掛けました。3月3日までやってます。

大阪にある、森岡さんと菅さんの2人でやっている「翁再生硝子工房」が作者です。

ガラス瓶は使用後、2種類の方法で処理される。

一つは、メーカーが洗浄して再び商品として出荷される、リターナブル瓶。

もう一つは、回収後、色別に分別して破砕し、主に建材などに利用される、ワンウェイ瓶。

「翁再生硝子工房」は、酒や調味料のワンウェイ瓶を溶解し、その後は通常の吹きガラスの製造工程と変わらない。

緑色のワイングラスは、元ペリエでしょうか? 紺色のシャーベット皿は、元ブランデーでしょうか?

「この薄紫のアクセサリーは、酸化マンガンを配合して作りました」と店主。

「この霧吹き状のランプシェードは、どうやって作ったのかわかりませんw」。

独特のゆがみや模様のものもある。僕はリサイクルガラスに興味があったのですが、彼らはそれもポイントにしつつも、あくまでデザインと腕で勝負しているのがわかる。

オイルランプがありました。風鈴の形を逆さまにして、細い金属で支えるルームアクセサリーもありました。

感覚が斬新。

去年は短期間、八ヶ岳の麓で暮らしてみました。

ご当地は、工芸家が結構住んでいて、そこで一回、ガラス工房を訪ねたことがありました。

もともと、散歩で空き瓶を拾う習性があり、そこにガラス工芸ですから食指が動く。で、地方でも、じっくり作っている人がいるんだなぁと視界が広がる。

そんな興味から読んだのが「いま、地方で生きるということ」西村佳哲著。東北と九州を取材した本。

工芸家は出てきません。

出てくる人々は、生物的な直感を大事にする人とか、地元を肯定したい人とか、機会に身を置いている人とか、自由度の量を問題にしている人とか。

都市は、「それで食べていけるの?」という仕事がたくさんあります。都市の専売特許と思っていましたが、地方にもあったんですね。

都市のモノサシで人生を測らなければ、効率だけで考えなければ、堂々と都市をうっちゃって、自分の場を作れる。

それどころか、問題が見えなくなるくらいの大きな力で、問題を包み込む。誰でもできることじゃありません。

夜にETV特集見ました。「花を奉る・石牟礼道子の世界」。

水俣病と向き合った「苦海浄土」3部作の著者です。映画にもなり、写真集もあり、公害の代名詞で、1株主運動で株主総会に出席した昭和45年。

もちろん知ってました。でも、避けてました。

すでに、昭和30年に水俣市の猫は「踊るように痙攣しながら走り回る」有機水銀摂取の症状があったんですね。

そして、石牟礼さんは、人間の患者に出会う。次々と不知火の海で働く漁師を訪ねる。

「人間であることが、恥ずかしい」という、うずき。

水俣の土地に縛り付けられた花も、かわいそうね」と、自分がよく考えた言葉で、40作を上回る本を著く。

平成21年に、特別措置法で潜在するすべての患者救済が決定されるも、ほんとに終わったのだろうかという問い。

もちろん、終わるはずがない。

山間部の住民も、行商に来た魚を食べていて、汚染はどこまで広がっているのかわからないから。

彼女は、たおれていった人々へ、そして、50代になっても患者として生きる人々へ、花の力を念じて合掌す。花にシェーンベルクを添える。

社会運動家であるより、まず私生活の人。今までの不明を恥じる。