三社祭のルーツは「ふなとぎょ」でした

去年は東北大震災の影響で、浅草三社祭は中止になりました。

今年は、5月18〜20日に開催されます。例年、150万人の人出でごったがえす。今年は、三社祭700年記念でもあり、5月とは別に「舟渡御(ふなとぎょ)」が開催というニュース。

いつ? 今日でした。54年ぶりに復活。

これ、写真でしか知りませんでした。神輿を担いで地上を練り歩くのではなく、神輿を舟に乗せて隅田川を行き来する。

700年前といえば、1312年。調べたら、鎌倉時代末期でした。

モンゴル帝国が北九州に襲来し、撃退するも幕府は衰退。後醍醐天皇が倒幕計画を立てていたころ。

浅草では、誰が言い出したか「そうだ、舟に神輿を乗せよう」と始まったのが「舟渡御」。三社祭ビギンズ。

それが明治時代になって舟運が衰退し、神輿は地上を練り歩くようになる。54年前に、1度復活するも、また地上にもどる。

詳しく知らなかったから、うなづきも深い。

そういえば、雷門から通じる仲見世に銘版がありました。絵付きで紹介している「浅草寺縁起」。

推古天皇の時代の話。時は628年だから、どの家の家系図も霞がかかっている時代。

隅田川で漁師をしていた兄弟がいた。姓は檜前(ひのくま)の浜成(はまなり)と、竹成(たけなり)。

3月18日。仕事中に、投網に異物発見。なんと、仏像でした。聖観世音菩薩であることがわかり、出家し、住まいをお寺に改築し、本尊とする。これが、浅草寺

「舟渡御」は、この由来が元だったんですね。

今も、境内にはたくさんの観音像がおわします。

写真は、尾張国の孝山義道の発願で建立された「聖観音菩薩像」。江戸時代1720年のもの。これ、雨ざらしにしておいて、いいのかなぁ? 太っ腹だなぁ。

苦しみを取り除き、お願いをきいて、慈悲の心を与えるのが観音様。

「音だっち」ツネツネには、このバンドが観音様だったのかもしれない。

・本日のおすすめ「銀杏BOYZ」です。このバンドがいなかったら、、、
中学・高校の頃、本当に救われたバンドです。

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いろいろなカタチの観音様がいるんでしょうね。

僕にもたくさん観音様がいます。たとえば、

耳鳥斎(にちょうさい)さんは、江戸時代中期の浪速っ子。酒造業→骨董商になるも、戯画が好きで、人付き合いも大好きだった人。義太夫などの旦那芸にも目がない。

平賀源内は、彼の大ファン。宮武外骨岡本一平も、彼に憧れた。

見てください、この線の脱力ぐあい。可笑しさ。

「日本の笑い」コロナブックス編から。

一度、大阪での展覧会に行きました。とにかく、この絵ですから、のんびりしちゃいました。線を略すだけ略し、表情をワンポイントに絞って、世相風俗を描く。

写真は「十夜会(じゅうやえ)図」。一つの善徳で千倍の功徳を得られるので、十日十夜にわたり念仏を唱える。

僧と、まわりを囲む檀家の人々。僧の口回りのおおらかさ。信者の猫背の群れ。ありがたさが、におってくるじゃありませんか。

だから、これも観音様図像。

浅草にもどっていいですか?

これは、明治初期に撮影された浅草五重の塔。つまり、三社祭もそろそろ「舟渡御」をやめて、現在のように地上を
練り歩くようになった時代です。

「レンズが撮らえた 幕末明治日本紀行」山川出版社刊から。

神輿が軒下ぎりぎりに通る現代。当時もこの様子だと、かつかつにワッショイとやっていたでしょう。

家々の屋根は木で葺かれ、風で飛ばされないように石が載せてある。洗濯したオシメも干されている。

ということは、境内が居住地域だった?

ビルやマンションも無く、ひときわ高さが際立つ五重の塔。初代は942年の建立。その後、たびたび焼失・倒壊し、その都度再建される。

現在のは昭和48年製で、コンクリート造り。仁王門の左手にありますが、この当時と場所は違うらしい。

手前にあるのは、弁天池。今は埋め立てられています。

境内では数々の甍、社、仏像、石碑、彫刻も目に入り、小路にもぬけられる。買い食いをして、ぞろっと歩いて、足を止めて銘版を読む。

時の散歩は楽しいよ。