1年後、歩行が写真をどう変えるか
・4月7日のブログにあった、低山ハイク・デビューおめでとうございます。
クリエイティブ仲間「クリだっち」から、連絡がありました。
・私も低山ハイクが大好きで、所沢からは奥多摩や奥武蔵〜秩父方面へ、よく一人でおにぎりとウヰスキー&つまみを持って徘徊しています。
・脇目もふらずひたすら頂上を目指す山登りは、どうも私の性に合わないですね。
そうだよねぇ。
・もう利用価値のなくなった植林の杉はとっとと伐採して、元々あった広葉樹に植え替えて欲しい! 切なる願いです。
・桜の開花前、里山に春を告げる私の大好きな野草3種
◎オオイヌノフグリ
◎ホトケノザ
◎ヒメオドリコソウ
・やはり、ノンビリと植物や昆虫、鳥の声や姿を楽しみながらの低山ハイクが一番です。
ノンビリはOKなのですが、野草と昆虫と鳥と樹木の名が出て来るといけません。カイモク、話を合わせられない。
知ってる知らないの知識じゃなくて、さりげなく、にじみ出て来るものが「クリだっち」にはあります。
自然と「保護色」になっている精神のありよう、っていうんですか。
前に、加藤則芳さんの「メインの森をめざして アパラチアン・トレイル3500キロを歩く」を50ページばかり読んで、挫折しました。
10キロも歩いたことがない人間が、3500キロも歩く軌跡を読み通せるはずがない、と恥ずかしかった。
経験してない後悔もありました。
でも、始めてみたい気持ちがあるから、試しの低山ハイクだったし、もっと基本の本を読みたいと。
再び、加藤則芳さんの「ロングトレイルという冒険」にとりかかる。「メインの森」より薄い本。
ピアノで大地への感謝を弾ける人が、うらやましい。
・歩くスピードが、心身に、思考する力に収まる。
・何日も何十日も大自然の懐で生活すれば、人はだれでも謙虚になれる。すべてのものがいとおしいものとして、心の襞に染みわたってくる。
・小説にたとえるなら、デイハイクはショートショート、1泊2日は短編小説、ロングトレイルは長編小説。
そうかぁ、歩行にも長編小説があったのかぁ。
そういえば、慶応大学のアートスペースで見たハミッシュ・フルトンの写真も同じだったよ。
彼の写真「ビーバーの小枝」。
「川に沿って4日間歩く、水辺で四夜のキャンプ、アルバータ、1980年春」。テキストはこれだけ。
小枝を器用に扱って、何かを建築しようとしているビーバーの足跡に共感する人がいた。ビーバーを撮影しようとは思わない人。
フルトンさんには「鳥/石」という写真もありました。
まず木があり、手前に石がある。必要な見晴らしを得るために、鳥は石めがけて糞を落とす。道標なんですね。
目印は、鳥だけでなく、歩く人にとっても道標になる。
歩くことに目的がない。まず歩く。歩いて後、心の状態を表すものを撮影する。ガイド写真じゃないんですね。
・単純に「在る」ことは、何かを「する」ことよりずっと難しい
彫刻からスタートした彼は、やはり、写真からスタートした人とは違う。
中平卓馬さんも、スタートが写真ではありません。
東京外語大・スペイン語学科卒。編集者を経て、写真家になる。
1973年に発表された「なぜ、植物図鑑か」が収められた「中平卓馬の写真論」を読む。
当初、夜・薄暮・薄明のモノクロ写真、それも粒子の荒れた、ブレのある写真を撮っていた。
「それは対象と私との間をあいまいにし、私のイメージに従って世界を型どろうとする、私による世界の所有を強引に敢行しようとしていた」。
人々が見たい、クライアントが見たいイメージを忠実に再現するのが、ほとんどの写真家です。そうしないと、食べていけませんから。
でも、それは世界を人間に隷属させるものだ、と彼には居心地が悪いんですね。
人間の思い描くままに世界を染色し操作する思い上がった思想だ、と。
だから、葉脈や樹液など、人間の肉体に類似した植物の表層をなぞる植物図鑑を構想する。
僕は、歩くことと写真を撮ることを始めたばかりだから、先人に教わることが多い。