川にも、博物館があったんですよ

埼玉県越谷の鉄道写真家・中井精也さんは、北海道の稚内から鹿児島県の枕崎まで、19日間で154本の列車を乗り継ぎました。

気に入ったのは、「同じ駅を2度通らない」旅。

地図で軌跡をたどると、日本列島を縦断するのではなく、列島の東西の幅をジグザグに降りて来る。

こういう漂い方もあったのか、おもしろいね。

このやり方で10倍の190日間、もっとマイナー路線を途中下車すると、どんな意外に出会えるだろう? やってみたい。

最近出会った、意外です。荒川の河川敷にテントの列を発見。

「何の祭りですか?」。

「ハーレー・ダビットソンの集会です」。

テントに隠れてましたが、確かにハーレーが大量に駐車してました。埼玉県のライダーが、今宵、気炎をあげるミーティング。

3時間ほど、テントを覗いてました。銀アクセサリー、バイク部品、ライダースーツと、その道のショップが延々と。

食べ物屋もありました。しかれども、ハーレーの集会ですから、たこ焼きとかおでんは無い。

ステージでコンサートが始まる気配もありましたが、帰りの時間を考えて、現場を去る。

午前10時に家を出て、午後10時に家に着く。

埼玉県立「川の博物館」に問い合わせすると、「池袋から1時間以上はかかる」と言われました。東京のはずれ、世田谷区からなら、ゆとりをもって3時間は必要と読む。

音はリチャード・トンプソン

東武東上線寄居駅に到着し、着席したのが講演5分前とギリギリ。「川の博物館」は、荒川の河川敷にありました。

川と運河と土木工事好きなら「世界の運河・日本の運河展」を見ないわけにはいきません。

21日の講演は、高崎哲郎さん「荒川に関わった技師たち」。

明治と江戸期の運河開削の物語。あまりにおもしろいので、次回6月30日「荒川の流路変遷と治水」も早速申し込みましたよ。

今回とりあげられたのは、2人の土木技師。

まずは、明治の青山士(あきら)。

墨田川と荒川の関係が初めてわかりました。

明治43年に東京の下町が大洪水になり、44年荒川放水路の工事が始まる。完成し、それまでの荒川を隅田川と呼ぶようになり、新しい荒川放水路を荒川と呼ぶようになった。

ということは、江戸時代に隅田川はなかった? 墨田の渡し船も、江戸時代にはなかった?

だから、落語で「大川」と言うのかぁ。

さて青山士、その時33歳の内務省技師。どうして抜擢されたかといえば、実績があったのです。

クラーク先生で有名な札幌農学校新渡戸稲造内村鑑三の同期生に土木工学の広井勇がいた。

当時の授業はすべて英語ですって。その広井勇の門下生が、青山士。卒業し、世界最大の土木工学実験場と呼ばれたパナマ運河に参加するため単身渡米。

開発はアメリカ軍主導でしたから、現場は当然軍隊式。熱帯雨林の中、最初は測量アシスタントでスタートする。

その後、測量技師長までいくほど責任感が強く、勤務態度がexcellentと評価されるが、時あたかもアメリカで「日本人排斥」の動きがあって退職、帰国する。

荒川放水路の開削工事20年の苦闘が始まる。

博物館の敷地にあった、荒川・隅田川の模型を見る。173kmを1000分の1にした模型。

長野・山梨・埼玉県の県境にある甲武信岳(こぶしだけ)が源流。ブナの森林にニホンカモシカツキノワグマが生息する地域。

北に向かって利根川に近づくも、南に迂回して秩父盆地に流れる。博物館のある寄居町から、関東平野が始まる。

有名な岩渕水門もありました。水門・調整池・植物の自生地・公園・橋など、自然と土木の大パノラマ。

「大洪水」「小洪水」の赤いボタンあり。押すと、洪水域がどのようになるか、状況が一目瞭然で何回も試す。

東京湾に至るまでの、時と地形の長い長い旅を30分ほどで体験。こりゃ、実際に歩かないとまずいよねぇ。

講演されたもう一人の技師は、江戸時代の井澤弥惣兵衛。

利根川と荒川を結ぶ、見沼代(みぬましろ)用水20里を開削した人。

八代将軍・吉宗の時代。享保の改革で水田生産をめざすため、60歳の弥惣兵衛さんが紀州和歌山県から江戸に呼ばれる。

もちろん、土地には関がある。つまり、高所。どう乗り越えたか?

人間の考えることは一緒なんですねぇ。パナマ運河と同じで、ゲートを設けて水流を分断し、3〜4段階で少しずつ水位を上げていく。

冬の渇水期に、河川中央を堀り、排水路にあてる。一方、堀った土で堤防を築き、脇に用水路を掘る。

これで農業用水を確保して、あたりに水田を作る。水田の作り方、初めて知りました。

2・3月は緑道に目覚めました。続いて、都市河川に目が行く。片道3時間電車に乗ると、173kmの川まで認識が広がるんですねぇ。