夫婦3題、くっついている理由
・もう、ネタ作りしようとかじゃないのに、こんなメールばっかでm(__)m
秘かに、旅ガラス娘「迷子だっち」のファンの皆様、お待たせしました。新情報、入荷。
・GWの3日間、ペンションでボラバイトをしに伊豆下田に行った件。いつもなんかこう、一筋縄ではいかないレッスンをしました。
一筋縄ねぇ。
・ペンションに到着早々、私、ものすごい勢いで具合が悪くなっていき、そして、そこの主人はノイローゼみたいで会話もままならず。
・不毛なやりとりの末怒鳴られ、とにかく逃げ出すように出てきました。
置き忘れた物、なかった?
・でも奥さんは普通の人で、最後5分くらい話をしました。漫画家の夢をあきらめていないこととか、とにかく、なぜかばーっと打ち明けられて。
・星座とかも訊かれて。1分で手相を見たら、彼女はちょうど分岐点。「分岐点のようだから、あきらめないで何か道を見つけてください」とだけ言い添えて。
・なんか不思議な嵐のような出来事で。
芸は身を助ける。星座や手相って、「困ってる人」には切実なコミュニケーションなんだ。
ホウホウのテイで逃げ出そうとしているのに、チョット奥さんにつかまるところが、「迷子だっち」だった。
どういう夫婦なんだろうか、想像する。
というのも、立て続けに夫婦を扱った映画2本を見たので。
一つは、「ル・アーヴルの靴磨き」。もう、皆さんはご覧になりました?
カウリスマキ監督の最新作。
「過去のない男」「街のあかり」「浮き雲」「白い花びら」と同じ味の、立版古(たてばんこ)映画。
立版古?
紙で作るジオラマです。例えば、町の立版古の場合は、
背景になる町並みを写真に撮ってプリントし、屋根の輪郭を切り取る。そして、建物部を台紙に立てる。
電信柱や車も、撮影後プリントを切り抜いて、台紙に立てる。人間や野良犬も同じ。
パースを持たせたり、サイズを工夫すると、まる1日遊べる情景の工作です。
カウリスマキ監督の映画は皆、動画なんですが静止画の印象が強い。人物が、じっとしているシーンが多い。
これすなわち、立版古映画。
ストーリーは、港町人情物語。
靴磨きをして慎ましい生活をしている男の宝物は、献身的な妻。ところが、彼女が余命宣告を受ける。どうしよう?
そこに、アフリカから難民でやって来た少年と、港でばったり出会う。
男マルセル・マルクスは、いつもちょっと困っている。ためらっている。
でも、人生をあきらめているわけじゃぁないんです。身の回りで起きたさざ波に決断し、行動に出ます。
わびしくても、善意と人情があれば、世の中は回る。ちょっとした「その気」があれば、ラストシーンのように桜が咲くんだねぇ。
「迷子だっち」が、伊豆下田のペンションで不毛なやりとりの末怒鳴られた事件も、カウリスマキ映画に出てくるシーンのようでした。
映画は、現実を真似る。
もう一つの夫婦映画は、「お茶漬けの味」。ご存知、小津安二郎監督。
芝公園にある「みなと図書館」で見ました。
図書館で上映する映画の観客は、基本、高齢者です。すると、どういうことが起きるか?
大股開き、私語、咳払い、物は落とす、私物をどこかに置き忘れ声を出して探す。
上映中に携帯も鳴ります。「もしもし、はい私。・・・あぁ、そう。・・・そりゃ、なにより」。
誰も止めません。これが、高齢者が参集した時の空気。なんだろうと思うから、僕もイライラしません。
映画は、進行する。小津安二郎監督作品にしては、事件が起きるほうでした。
田舎出身の夫と、都会育ちの妻。いちいち、合いません。趣味も食べ物も人づきあいも。
夫「好きで一緒になったんじゃないから」と、つい本音を漏らす。妻、ブリブリに怒って家出する。とはいえ、夫婦は「お茶漬けの味」に似ているというのが、監督の言いたいところ。
「ただぼくは、女の眼から見た男ーーー顔形がどうだとか、趣味がいいとか言う以外に、男には男のよさがあるということを出したかった」。
上映後に借りた本「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」に出て来た言葉でした。
黒沢明と並んで小津安二郎ほど、内外の監督に影響を与えている監督はいないでしょう。
何に魅了させるのか?
黒沢明はドラマ性で、小津安二郎は非ドラマ性かな? 非ドラマなのが、どうして映画になるのかを追求したくなる。
ですから、彼を評論したものは難解なものが多い。
ところが、彼自身の本は拍子抜けするほど「常識」でした。強靭な「常識」。凡人は、他人から見たらちょっと「非常識」を抱えているはずなのに。
これに、映画作家は魅せられるのでしょうか?
夫婦という組み合わせは、絵に描いたような「常識」であるはずなのに、お互いを見る目が「非常識」同士で暮らすから、伊豆下田夫婦のようなケースもよくある。
よくあるかな?