早く7月のこけら落としが来ないか
7月から、渋谷ヒカリエの劇場オーブで「ウエストサイド物語」公演があります。
小学生だったころ、姉が友だちと「私は3回見た」「私は5回見た」と夢中でしゃべっていたのを思い出します。
同じ映画を何回も見るって、お金の無駄じゃないの? と、こっちは月光仮面や鞍馬天狗のメンコを箱に並べながら聞いてました。
ジョージ・チャキリス兄さんは、それほど大和撫子を総ナメにした。
キムタクと海老様と熊川哲也と、あと知らないけどイケメン3ダースほど合体した人気。
夜も日もあけない、というほど。
「ミュージカル」なんて言葉も、いかにもふやけた・にやけた感じて気に入らなかった。
唯一、かっこいいと思ったのは、ポスターに描かれたアパートの外階段。鉄のむき出しが、日本では見られなかったのでね。
その思い込みは今に至り、外階段を見れば撮影します。雨が降ろうが、槍が降ろうが。場所も不問。耐用年数不問。徒歩0分、委細面談せず、とにかくレンズを向ける。
そのうち、鉄の外階段写真展をやるから、待っててね。
さて、
お酢を飲み過ぎたのか、小生、後年体質がヤワになる。合わせて長男坊も、親父の頭髪・近眼・難聴・入れ歯・おぼつかない足元を見て感じることがあったのか、「ウエストサイド物語」の前売り券を突然プレゼントされる。
なんと!
「父ちゃん、いい席だよ」。
うれしかったねぇ。
今をときめく佐渡裕さんの先生。小沢征爾さんの先生でもあるバーンスタイン。
自伝「バーンスタイン わが音楽的人生」の内、「『ウエストサイド物語』日誌からの抜粋」を読む。
彼はすでに4冊、出版していました。本書は5冊目。さすがに書くことがなくなったのか、その時その時のメモのようなものを集めた本。
それだけに、臨場感はあります。
ことの起こりは、1949年1月6日から始まります。
後年「王様と私」や「屋根の上のバイオリン弾き」の振り付けもやったジェローム・ロビンスから電話がかかってくる。
現代版「ロミオとジュリエット」を作りたい。成功可能か? と。
1月10日。
何であれ、オペラでないスタイルをどうするかで、長い話し合い。ぞっこんだ! トライしてみることに決まった。
55年6月7日。
6年間延期も問題ではない。未だ興奮状態だ。
57年2月1日。
フィルハーモニーの仕事も片付き、これからは邪魔するものがない。どんな話が来ようと、妨げになりそうなら、即座に断ろう。
57年8月20日。
昨夜のオープニングは、夢に見ていた通りだった。多くの苦しみ、度重なる延期、無数の書き直しがすべて報われた。
このショーの一員になれたことを、誇りにおもっている。
勢いがついて、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」小澤征爾×村上春樹著を読んでみる。
村上春樹さんの本は1冊も読んでません。
海外で公演したとか、大学で教えたとかニュースになっても、いっかな触手が動きませんでした。彼を評論したものも興味なし。
今回も、小澤征爾さんがらみで。
2009年、小澤さんに食道がんが見つかり、活動を制限
されるようになって初めて、村上春樹さんと対談できる時間ができた。
ところで、村上春樹論を張る評論家は、文芸や育ちやジャズ好きを書きこそすれ、彼のクラシックについてのキャリアに触れたものがあったのでしょうか?
1960年代から、彼はクラシックを聴いていたのです。マエストロに問いかけができるほど、聴き込んでいたんです。
世界のフィルハーモニーの質の違い、アーティストの入れ替え、レコーディングのやりかた、スコアを勉強するということ、いわゆる流行の曲、音楽監督という仕事。
長いキャリアを積んで来た小澤さんの指揮振りが、どのように変化していったか。
50年間聴き続けると、その差が指摘できる。
僕はクラシックを聴き始めて1年だから、さっぱりわからない。
それにしては、文章がどうしてこれほど入って来るのか? パソコンの説明書よりスラスラ入る。
専門用語を使ってないのが第一でしょう。2人で引き出し合うのが、一人称の解説よりくだけていることもあります。人間の大きさが気持ちいいこともありました。
師匠のバーンスタインは、よく弟子に感想を求めた人でした。
それでは、マーラーを聴いてください。
弟子いわく「そうとう硬いですね」。
・楽器の弾き方を仕込まなかった。アンサンブルの方法にあまり注意をしない人だった。天才的ですから、教えられないんです。
・プロの指揮者は、今この瞬間はこの楽器を聴いてくれと指示を出すんです。するとオーケストラの音がすっと合う。カラヤン先生は、そこが天才的にうまかった。
聴いても違いがよく、どころかまったくわかりません。でもいいんです。そのように聴き分けられる楽しみが将来あるから。