「語りすぎないこと」って大事だよ
銀座は、すっかり夏模様です。
風鈴屋が、出てました。こういうの、大通りにはいません。花売りと一緒で、行きがかり上、足を止める裏道の風物誌。
僕も足を止めました。4丁目交差点、和光の裏手の画廊前。
休廊らしく、中は薄暗いのに何やら楽器で練習しているのが、ウィンドーに映る。
ドアを開けて、「聴いてもいいですか?」
ギターとコルネットとボーカルの3人組でした。20〜30年は一緒にやっていそうな、息のあった演奏。大人のジャズ。
このリハーサルというやつ、舞台裏に立ちあっているわけですから、独り合点の優越感に浸れる。
コルネットと書きました。最初は「短いトランペットだな」と思ったら、別の楽器名をちゃんと教えてくれました。
「今日は、ベース担当が子供の用事で欠席してます」と、コルネット担当おじさん。5曲ばかり堪能。ベースがなくても素朴でよござんした。
ロジャー・ウェブスターが演奏しているのも、コルネットでしょうか? やっぱりトランペトかな? 艶がある音です。
さて、やって来ました「ファウスト」を上映中のシネスイッチ銀座。
「ファウスト」といえば、ゲーテ。ゲーテの創作だと思っていたら、中世ドイツの民族伝承話でトーマス・マンも著いていた。
のみならず、シューマン、リスト、ベルリオーズがオペラにしていたのだった。
まぁ、だいたい予想はしてましたけど、観客は10人前後。自分の理解不能のことは、おしなべて「ウザイ!」で片付けるからでしょうか? ストーリーがあって、結論を求めるなら、見ないほうがいい。
理解できるのは退屈です。不能のほうが、不安に揺れ動くから好き。
悪魔と取引するファウスト博士の物語ですよ、お客さん。もっとも、知っているのはそれだけ。
ソクーロフ監督は、歪んだ心を表すのに歪んだ映像を差し挟みました。画面が正方形に近いのは、クラシカルを強調するためでしょう。
140分ですから、長い。けど、ぜんぜん長くない。監督が考えた幻想のミステリーに、もっとつきあいたいくらい。
1ヶ月ほど前に、監督の「エルミタージュ幻想」を観ました。
映像作家は、分析する人ではありません。それは、研究者や評論家の仕事。
そして、映像で説明し過ぎないこと。これ大事。この世は、解説の映像が多過ぎるので、脳みそが怠惰になる。
そして、日本人について。
「どうしてロシア人の監督が、昭和天皇を扱った『太陽』を撮ったのだろう?」という永年の疑問が、ちょっとわかりかけてきた。
「日本の生活は、一見安全です。でも、内面の葛藤があっても、外見では強烈な平衡がある。外面の均衡は危険です」。
慇懃、粛々を指摘されちゃってます。
人が、何かを作っている風景を見るのも好きだと語る。「たとえば、旋盤工が箱を作っているとか」。彼が信用できるのは、工作好きだったからでした。