芥川龍之介も煤煙で悩まされた時代
10月1日、復元した東京駅・丸の内駅舎、もう見学しました?
数あるターミナル駅の中で、やはり、他を断然リードして押し出しナンバー1の威厳があります。もちろん、これは皇居と、そこから続く道と、行啓の発着駅というセットの設計だからです。
明治41年(1908)に建設が始り、大正3年(1914)に完成するまで、人々は「中央停車場」と呼んでました。セントラルであることの威儀。
駅舎の長さは335m。ちょっと待って。当時も、この長さだったんですか? ということは、車両編制の数が、大正時代と平成時代で一緒なんでしょうか?
もし、同じ車両数なら、当時は人口が少なかったから、ガラ空きだったのでは?
今回の復元工事期間も、2007年から2012年ですから、建設当時とあまり変わらない工期がかかってます。
ニュースの中で、一番興味があったのは、大内田史郎さんのこと。
01年に復元の議論が起きた時に、すでに資料作りをしていた彼。03年から大学院で駅舎の研究をスタート。博士号を取ってJR入社。3年目に工事始まる。
受け持ったのは、南北ドームや装飾の調査と設計、監理。写真・図面の資料が少なく、雑誌や学術誌を探す毎日。
ドームの内部の色、天井のレリーフ、屋根材。
漆黒の屋根材に必要なスレートは、45万枚。宮城県の雄勝町と登米市、不足分はスペイン産の石。
外壁に使う赤レンガは、40万個。色と形を再現するために、愛知県の土を探して試作すること6年。
施工法は現代のほうが優れていると想像します。やはり、時間がかかるのは材料ではないでしょうか?
名所だった、ギャラリーも復活したらしい。レンガむき出しで、何回か通いました。
工事中は、閉鎖。
知ったのは、今年3月に「旧新橋停車場」で現代美術展をやっていたからです。
「東京駅が工事中なので、ギャラリーがこちらに移ってきました」と係員の説明。
明治5年に竣工した新橋停車場。と大正に竣工した東京駅舎。42年の間に国力の違いが、規模に現れている。プラットホームも、短かった。
いずれにしても、荘厳な帝都の玄関完成を祝った98年前・大正3年って、どんな時代だったのだろう?
僕の親父は、大正2年生まれだから、興味がある。好きな芥川龍之介で探しました。
「羅生門 」は、大正4年。「蜘蛛の糸 」「地獄変」は、大正7年。
「蜜柑」は、大正8年でした。
しもやけをした手の13・4歳の小娘が、奉公に出る時代。列車の窓からみかんを投げて、なごりを惜しむ時代でした。