どくとるマンボウは、マンに出会って
東京にもどって、昼夜逆転生活。しかれども、20日は眠い目をこすって参加しました。
池内紀さんが、世田谷文学館で講演した「『楡家の人びと』とドイツ教養小説」。
どくとるマンボウ・北杜夫さんも、ドイツ文学者・池内紀さんも好きですから、はずせません。
遠方からなら、京王線・芦花公園駅から歩くでしょう。前に「植草甚一展」を見に来た時は、そうでした。すでに世田谷住民の今回は、反対方向から千歳通りを歩いて到着。
地域の文学館ですから、縁の作家をとりあげます。植草甚一さんも、北杜夫さんも世田谷在住だった人。
講演を聞いていて、つくづく池内紀さんのようなおじいさんが長屋のご隠居にいてくれたらなぁ、と憧れますます深まる。ジーンズの似合うご隠居さんです。
知識としての文学を極めて、それから長い年月が過ぎ、知恵としての文学になった典型人。談、噺になってる。
「人がしゃべっているのは、眠るのにちょうどいいですから、どうぞ、ご遠慮なく」と、笑顔で開口一番。
講演の最後には、「楡家三代の主人公もさることながら、回りの人々の魅力に惹かれる」と語る。「そうだったねぇ」。何十年前に読みましたが、未だ魅力的な周辺の人々。
トーマス・マン「ブッデンブロオク家の人々」に影響を受けて著かれた「楡家の人びと」。
最初から、そうだったの? の連続。
そもそも、ドイツ教養小説って何? 第一、教養ってところが、くさくて教訓めいてとっつきにくい。例えていえば、山本有三「路傍の石」のような。
「教養」は誤訳だそうで、本来は個性を形成する、あるいは人格を深める、素質が発展する小説群のこと。
ドイツ独特の形式で、イギリスやフランスにも「ジャン・クリストフ」「チボー家の人々」「失われた時を求めて」はあるが、教養小説とは呼ばない。
重くて、長くて、読み通すにはつらい小説。
ドイツには、中世からの伝統があり、映画にもなったギュンター・グラス「ブリキの太鼓」がこの範疇だという。
「ブッデンブロオク家の人々」。読んでません。
商業が盛んな都市がつくったハンザ同盟は聞いたことあるでしょ? 19世紀後半になって、鉄道の時代を迎えると衰えていく。家業の衰退を目の当たりにした、青年時代のトーマス・マン。
物語は、三代が一同に会した食事風景から始まる。
マン商会のおじいさん世代は、おしゃべりで健啖でよく笑う。
親の世代は、上品で、つつしみがあり、エスプリが利いている。
自分の世代は、虚弱で、繊細で、感受性が強く、文化的。
出だし50ページの食事シーンが、小説全体の見取り図になっているのだ。ルビャンツェフ、どうでしょう?
売り上げ台帳が気になる祖父世代から、夜の演奏会が気になる若い世代。
それが、そのまま大河小説「楡家の人びと」に移植される。
楡脳病院を創立し、衆議院にも出馬する初代。リアリストで夢想家。売り上げ、権力、俗の権化でありながら、一方であどけなく、愛嬌があり、情にもろい。
建てた脳病院は、豪壮に見えるけど、ハリボテ感はぬぐえない。
二代、三代に下っていくに従って、生活力は失せていき、傷つきやすくなり、小心者に変わっていく。皮肉屋になる者、おっとりする者、劣等感を抱く者。
そこを彩る、周辺の人々。
飯炊き一筋の、へそ曲がりじいさん。新聞朗読が得意な、入院患者。鶴のように足を挙げて歩く事務員。元看護婦で、子供たちを育てる婆や。
あぁ、懐かしい。
マンといえば、「トニオ・クレーゲル」「ベニスに死す」「魔の山」も、講演には出てきました。これまた、すべて読んでない。池内紀さんが案内してくれたから、読みたくなってきました。
北杜夫さん、1945年に長野県・松本高校に入学し、トーマス・マンを読み始める。
僕も先日、松本体験をしました。駅で買ったのはご当地限定!!!!な、お菓子。
・株式会社エイコーのわさび!チョコレート
三代の時間をテーマにした「ブッデンブロオク家の人々」と「楡家の人びと」。登場人物は「人生の誠実なやっかい息子だった」と池内さんの講演が終わる。
お菓子を食べながら、その意味をかみしめる。