師匠がたに会いに、烏山寺町に出向く
作家で、TV「11PM」の司会でも名前を売った藤本義一さんが亡くなりました。
淡い語り。坂田藤十郎さんと同じ、浪速の色気を目で感じさせた粋人。
ロックの桑名正博兄さんも逝っちまいました。浪速のぼんぼん。いかにも、いい奴。哀しい。
高座で「これだけの芸者、2000円じゃ呼べないよ」と、江戸前のキップで売った玉川スミさんも。姉さん、92歳の大往生。寂しくなるね。
後はお墓で過ごし、お参りする人の呼び掛けに「やぁ、いらっしゃい」と答える。死者は、死なず。
烏山寺町を歩きました。
掃苔録(そうたいろく)っていうのが、あったそうです。苔を掃う記録。お墓参りをする趣味。というより、気持ちのよりどころとなる行為でしょうか?
宗派いろいろ、26寺が集まっている烏山寺町。
ことの起こりは、大正12年の関東大震災。復興のため区画整理となり、大正13と昭和2・3年集中的に移転して寺町をなす。旧所在地は、浅草・築地が多い。品川・芝・千駄ヶ谷・渋谷もありました。
墓所の引っ越しって、どういうものなのか? 不思議な感覚がします。
実際、花を手向けて手を合わせる場面に出会います。静かで、いい風景。
気になる人が多く眠っているので、墓前の前に立ち、墓石を撫でる。いつもの癖。
落語の三遊亭円生師匠は、永隆寺。
他姓の墓石と一緒に置かれてました。思っていたより、小さい。本名・山崎松尾だから山崎家之墓。
落語のCDを集中的に聞いて、結局、リピートするのは円生師匠です。何回聞いても、飽きない。基本なんだ、ということがわかるから。
漫画「ギャートルズ」の園山俊二さんは、高源院。黒い墓碑にペースケが彫られてる。
「刑事コロンボ」の小池朝雄さんは、専光寺。戒名は、優昴院照誉朝雄居士。
移転前を感じさせるのが、江戸・明治期の人々の墓。
赤穂浪士の講談で出てきます。石碑に「夕立や」とありますが、あとは読めない。石碑の文字って達筆が多いでしょ? 書道の心得がないと、なぞれません。
稱往院門前にあったのが「不許蕎麦」の碑。寺が浅草にあった時代、庵主の作る蕎麦が有名だった。ところが、修業の妨げになると、禁制にしてしまった。
おかげで、近所の蕎麦屋は大もうけ。と邪推。
明治期の画家もいます。
小村雪袋(せったい)と、速水御舟(ぎょしゅう)。どちらも妙高寺。かつては、何が良いのか? はっきり言えば大嫌いだった日本画。今は、どんどん好きになっている。
江戸期にもどって、為永春水。
中心の寺町通りから離れた妙善寺にありました。
人情本作家。「東の井上ひさし、西の藤本義一」といわれた直木賞作家たちの元祖。永井荷風も、春水の描く世界にあこがれた。荷風散人が、やっと発見した避難場所「春色梅暦」。
天保の改革で、お縄をちょうだいする。
喜多川歌麿もいました。専光寺。「北川」とだけ彫られてました。
美人画の浮世絵師。蔦屋重三郎と組んで売れっ子になる。フランス印象派にも影響を与える。
と書けば、表向きの美術史です。裏史でいえば、春画で大人気だった。春水同様、入牢。
・古陶磁店主の浦上満さん
「娘の抵抗度はハンパじゃない」
・フランス文学の鹿島茂さん
「噛んでるもんね」
・多摩美術大学の山本ゆかりさん
「ここまで意志を感じさせる女性像は、日本の絵では珍しいです」
歌麿画「歌満くら」第九図。右下にセリフあり。
「此、利兵衛じじぃめ、よしやがれ」と娘。「なんといわれても、一ばんしさいすればよいのじゃ」と利兵衛じじぃ。
玉門に突き立てる一物は、じじぃにあるまじき屹立。
「芸術新潮」2月号、特集タイトルは「春画ワールドカップ」。東洋・西洋のエロチック・ペイントが覇を競う。中には、関節がはずれるようなポーズが多いなかで、日本A代表は、やはり歌麿でした。
「セクシャルバイオレットNo.1」を聴きながら、堪能中。