座学だけじゃなく、上流探検もしないと

12日のブログで、テニス練習後の話をしました。

・練習後のために、ズボンとかウィンドブレーカーとかダウンベストをバッグに入れて出掛けるのか? でも、荷物になるし。

一旦外出して、用事が終わってそのまま帰宅するってシャクでしょ? 気が済むまでフラフラしたいでしょ?

テニスに限らず、「部活」が終わって寄り道するのは、

Aコース 都心に向かう

Bコース 川沿いを歩く

の、どちらかです。

陽が落ちるのが早いから、川沿いの場合は完全武装しないといけない。たびたび歩いているから、多摩川・野川・仙川も少しずつなじんできました。

ウォルフガング・シュルツのフルート。

関東大震災後の大正13年、玉電・砧線の開通に合わせて橋が架けられました。砧線は、現在の二子玉川と砧本村を結ぶ2.2kmの路面電車です。

二子玉川駅付近の、多摩川・野川合流地点で案内板を読む。

・人々の通勤や通学だけでなく、震災復興のため多摩川の砂利を都心に運搬するため、大きな貢献をしました。

・クルマ社会の到来とともに、昭和44年に玉電世田谷線を除いて全線廃止になりました。

「そういう電車が、あったんだ」。



14日、烏山区民センターに向かうバス停前のコンクリ製造工場。これも、どっかの川から来た砂利。

「何してんの?」。

工場長がとんで来て詰問する。多いんだ、秘密でもないことに神経とがらせる風潮。

「撮影してんの」。

これでズッコケたか、砂利と砂の話を始める。

「海の砂は、ダメ。鉄骨が錆びるから」

「どっから砂を持って来るんですか?」

「千葉の山から」。一山買って、採掘する。土・石ではなく、砂を採るとは意外。未だジオグラフィックは、入門者レベル。

本日の講演会は「世界一の水道 玉川上水」。

小学校の先生時代から、退職した現在まで玉川上水を研究する茺中正之さん。川マニアも昨日今日始まったばかりだから、聞きに来ました。

いろんな機関に呼ばれて、啓蒙活動に忙しい彼。

「普通は3回くらいかかる講座を、今回はまとめて1回でやります」。

多摩川の何が世界一かといえば、全長ではなく、給水人口。小河内ダムから日量630万立方mの上水で、東京都をまかなっちゃうんだからね。

武蔵野台地概論、多摩川概論、徳川家康の開府概論、徳川吉宗の新田開発概論。

とにかく、江戸幕府は水不足からスタートした。城下町建設のためには、なにがなんでも飲料水、農業用水を確保しなければならない。

そこに登場、教科書でおなじみの玉川兄弟。社会貢献した篤志家と思ってました。

まったく違って、事業家。ビジネスマン。名前も玉川じゃなかった。

枡屋庄右ェ門、31歳で土木・建築請負業。枡屋清右ェ門、28歳で口入れ業。つまり、仕事斡旋業。

この兄弟コンビ、多摩川流域の出身だから事情に明るい。家柄は豪農だから資金力も豊富。発注したのは、治水の専門家、玉川上水奉行の伊奈半十郎。

兄弟、工事を請け負ったまではよかった。

立川近くの青柳から掘削して、府中・甲州街道に沿って四谷大木戸まで通すプラン。ところが、府中で断層にあたり、みるみる水が吸い込まれてしまった。

失敗。

標高差、70mだった。ならばと、次は標高差110mにして福生からスタートさせる。ところが、5km進んだところで大岩盤につきあたる。

また失敗。

玉川上水奉行の伊奈半十郎の頬はゲッソリ。予算7500両の内、すでに1500両が消えた。3回目の着工を見届けて切腹する。

ならばと、標高差120mの青梅近くの羽村からやり直し。時に1653年4月4日着工。年内までに完成させなければいけない。

全長43km。

羽村福生→拝島→砂川→小金井→田無→保谷→連雀→吉祥寺→久我山→高井戸→和泉→代田→下北沢→笹塚→角筈→四谷大木戸。

書き写すのも疲れる。

江戸で集めた無宿人が、現場で切り合いを始める。旅芸人を集め、囃しでやる気を出させる。高井戸付近で予算が切れたので、兄弟は家屋敷・田地・山林を手放す。

こうなりゃ、執念。みごと、218日間で完成させた。

烏山区民センターの北隣に、旧甲州街道が走っている。水平に泳がず、立ち泳ぎ専門の金魚を見つける。

こんなことに見とれてるから、ズボン・ウィンドブレーカー・ダウンベストが必要なんです。