地域の特長を捉えた企画展だった
医療器具を収める、白いキャビネットは好きです。
すると、古い医療器具や薬袋が好きになり、これは骨董市でよく買い集めました。ついでに、こんな言葉はありませんが、病気文化好きにつながる。
11月25日に、文京ふるさと歴史館で柳田邦男さんの「闘病と文学」講演がありました。東京にいなかったので欠席。でも、やはり展覧会「近代医学のヒポクラテスたち」を見に行きました。
うれしいことに、この歴史館は65歳以上は入場料無料でした。
ヒポクラテスは古代ギリシャの医者。ヒポクラテス。ヒポポタマスと、間違えないように。医療に従事する者の倫理・責務を、ギリシャ神に宣誓した男として名高い。
だから展覧会で紹介されている日本人医師は、どなたさんも理念を持って医者になった人というのが、コンセプトなんでしょう。
そこに、興味本位で飛び込む。
もともと、文京区は医療の町なんです。
山本周五郎「赤ひげ診療譚」で知られた小石川養生所ができたのは、江戸時代享保7年。
後に東大医学部や順天堂大学もできて、と来りゃぁ、製薬会社や医療器具・実験道具から剥製製作の会社まで集まった。
サトウ製薬、大正製薬、ライオンの創業は文京区だった。
「今じゃ、カタカナの会社に吸収されたりしてね。昔に比べれば、少なくなりましたよ」と、店が看板建築の(株)大津義男商店のおかみさん。
店と雰囲気はアンティークだけど、扱っている商品は電気・電子が主役の医療器具。僕としてはさびしい。店は、骨董市では売ってないから。
いきなりですが、適塾ってあったでしょ?
福沢諭吉とか、橋本左内が門下生にいた大阪の塾。今まで、政治の塾だと勘違いしてました。蘭学を基礎に、西洋医学を教える塾だったんです。
講じていたのは、緒方洪庵。日本人ヒポクラテスの一人。手塚良仙も弟子の一人で、彼の3代目が手塚治虫。
相良知安は、日本にドイツ医学を導入した鍋島藩の人。
長谷川泰は、蘭学塾・佐倉順天堂で学んで、自分も私塾をおこした。これが、現在の日本医科大学。
荻野吟子は、日本第一号の女医さん。いかにも賢そうな美人の典型です。
森鴎外が、軍医総監として北里柴三郎へ出した明治44年5月23日付け書簡がありました。
20cm × 2mくらいの手紙。筆サラサラ、まったく読めません。
済生会病院の院長をしていた柴三郎に、「部下の軍医たちをそちらに送るので、臨床で鍛えてほしい」という内容なのだった。
鴎外ねぇ。そうだ、森鴎外記念館まで足を延ばしてみよう。旧居・観潮楼の跡地に11月1日に完成。
裏道、裏道を歩いていたら、汐見小学校の前に出る。
医療系の文京区は、坂の町でもある。往事は、坂から眺めれば観潮も汐見もできた。
「薮下通り」の案内板を読む。
本郷台地の上を通るのが、中山道で現国道17号。下を通るのが不忍通り。台地中腹に、自然にできたのが薮下通り。笹薮が生い茂っていたので、このネーミング。
鴎外の散歩道だったらしい。ここまで来れば、森鴎外記念館までは目と鼻の距離。
ワンカップ大関を飲む男に出会わなければ、行きました。2人の話に聞きほれていたんです。
年上が年下に話す内容といえば、定番です。自分もその通り実行してりゃ、うそ寒い薄暮の薮下通りでワンカップ大関を飲む境遇にはならなかったようなこと。
好きなんだ、おやじの教訓話。イアン・アンダーソン。
おかげで、森鴎外記念館は次回訪問になる。