人の2〜3倍かけて、街道をゆく

本日17日の深夜。1週間ぶりに書きます。

グーグルクロームの調子がおかしくて書けませんでした。対処がわからない。次男坊に直してもらう。

やっと書けるようになって、ほんとにうれしい。

ストップしてた9日を読んだら、「次回も、股旅の話しますね」とあったので、翌日に書きたかったことを思い出しました。

世田谷区玉川支所主催で、「大山街道ボロ市」3回講座。講座参加費50円。初回だけ参加して、残り2回は欠席。

その2回も、1回はボロ市散策だから一人でもできる。もう1回は「講師が急遽入院したので、残念ながら休講です」と。

講座を聞きに集まるのも年寄りですが、講演するのも年寄り。老人の集いだから、入院の知らせにリアリティがあります。

「この中で、国民学校の体験者はいますか?」と問いかけから講座は始まりました。国民学校って、戦前の学制でしょ? 仮に10歳の学童として、存命なら現在77歳。

約80歳になっても、大山街道3回講座に通う体力・気力のある人、いますかねぇ? 

ちなみに、そういうおじいさんは僕の目指すものであります。

居場所がなく、誰も話を聞いてくれず、退屈しきってるおじいさん。町の集会所に出掛け、人の話を伴奏に机に突っ伏して寝る。気持ちよさそう。

さて、大山街道

落語でおなじみですね。

神奈川県の大山へ、町内の男連中がお詣りに行く噺。信心もするが、遊びとセット。帰りは、おとなしく大山街道にもどりません。東海道に出て、藤沢でドンチャン騒ぎ。

ほんとに大山詣での史実を知ったのは、ずっと後のこと。我が用賀も、街道筋だったのだ。

駅前に道標が残ってます。もっとも、旧街道とわかるのは、それだけ。後は、神社仏閣でしょうか?

これは、全国津々浦々皆同じ。

配布された地図も、道標・庚申塔・地蔵さんがポイントされてるばかりで、見逃す物件ばかり。なりけり。

歴史をたどると、すでに万葉集の時代に防人の歌で街道が詠まれている。中世になると山岳信仰が盛んになり、源頼朝は納太刀(おさめだち)をした。

そして、江戸時代になると落語のような大山詣でが盛んになる。「ところで、どこが起点だったの?」が、素朴な疑問。

「一応、現在の赤坂見附がある『赤坂御門』です」。

ということは、本所・深川の下町連中は赤坂御門までのミニ旅をした。反対に、現在の世田谷区の農民は、街道途中から出発できた。

となると、どこに宿場町があったの?

「だいたい、中央林間・長津田で一泊したでしょうね」。

そして、2日目には大山山頂へ。えぇ、そんなに強行軍だったの? 健脚ですねぇ。4〜5日かけて行くのかと思い込んでました。

写真は、旧中山道にあった「余興研究所」。歩くなら、道標・庚申塔・地蔵さん以外に、こういう店でもないとつらいよね。ギャラクティック

というのも、4分冊された詳細地図をもらったので、春に歩こうと目論んでいるからさ。いろんな所にひっかかって、年寄り同士で茶飲み話をしたい。

<おまけ>

大山街道は、軍用道路でもあったんです。

赤坂御門近くに、旧陸軍参謀本部青山通りに、青山練兵場・代々木練兵場。246号線に駒場練兵場、駒沢練兵場。

世田谷区には、陸軍自動車学校や海軍病院が点在し、東条英機邸もあった。

講師は国民学校経験してますから、ソラで言えます。暖かく受け止めよう。