他者のない自己はない、だからイメージ
あれは2年前のお正月あたりでしたか?
ハーバードのマイケル・サンデル教授の「白熱教室」が話題になりましたね?
こんがらがった世の中を、「あたりまえじゃん」とやりすごして来たけど、「本来そうなのか?」と再考をうながす授業。
先生と生徒がやりとりする授業の進め方は、一服の清涼剤のように思えた。アメリカの教育は、さすがだと。
本人に言わせると、「学生時代の一方的な講義に退屈しきっていたから、自分が先生になったら」と試行錯誤の結果、編み出した今のやり方。
とはいえ、アメリカの大学の授業風景が、基本サンデル方式になったとは寡聞にして聞かないでしょ。
伝える方法で、一番簡単なのは自分が知ってることを喋る一方通行。相手不在。ところが相手を考えた伝え方をするには、戦略が必要。
これ、手間がかかるんです。準備がタイヘン。教える本人が勉強しなきゃいけないし。
手抜きをしたいのは、アメリカの先生も同じ。
それにね、生徒も「いちいち考えるのは、めんどう」という姿勢。たまには、いいけど。
かくして、たまに週1回サンデル先生の授業は人気がある。
著者のキク・アダットさんはハーバードの社会学教授。サンデルさんの奥さんだとわかって手にした本「完璧なイメージ」。
映像メディアはいかに社会を変えるか、がサブタイトル。
カメラを持って散歩してる身としては、社会を変える写真は撮れないけど、気になる。
イメージという言葉ほど、やっかいなものはないです。
らしさ、かな? 絵のような、かな? あってほしいもの、かな? 意外感、かな?
いずれにしても、見る人を念頭に入れた戦略、作為。
素じゃないから偽物だ。でも、人は偽物を好んで作るし、参加するし、消費する。だまされたがっている。
素という作為を見たがる。
本のほとんどは、政治家がイメージ作りに熱心な様子を追う。自己の商品化で先端をいく、アメリカの政治家たち。
イメージのないビジュアルは、散漫で「何をいいたいのか、わからない」ものが多い。
比較して、日本の政治家のウリは「実直」でしょう。
ところが、実直ですから「実直」を商品化しようとは考えない。作為がいや。すると、ポーズが哀しいくらい絵にならない。
キク・アダットさんから見たら、貧乏芝居役者でしょう。
でもね、政治家だけの話じゃなく。
決めポースばかりか、メディアが流すあらかじめ仕組まれたドジとか、気取りのなさとか、恥ずかしいシーンに取り囲まれているのも、飽きちゃうよね。
ヘビメタのオジー・オズボーンは、自分専用の番組を持っていて、私生活のヘマを魅力的なエンタテイメントに仕上げてるんだって。
ファンには、うれしいでしょうが。
サンデルさん夫妻だって、自宅ではお互いに「先生」と呼び合わないでしょ?