わかる、わからない両方の文語好き

朝、明けると一面の銀世界はプレゼントをもらったようにうれしい。

今日のように昼から降り出すというのは、めずらしいですね。それも、長時間降ってますから、こりゃ積もるよ。

昨日、もらったチラシは一面に天狗の絵。ちょうど、お面のサイズだからハサミで切り抜いて、顔につけてみる。

渋谷区の文化センター大和田でやった「鞍馬天狗」。

センターは、開館してから伝統芸能を学ぶ「寺子屋」活動をしてます。歌舞伎、邦楽、落語にチビッコから年寄りまで参加している。

去年は、市川染五郎さんが監修・出演した「渋谷金王丸伝説」を演りました。踊りの独り舞台、よかったなぁ。

プロデューサーの鈴木英一さんは、常磐津の和英太夫でもある。6回連続の常磐津講座に参加して、手ほどきを受けたのも去年の秋。

歌舞伎で謡われる常磐津。長唄と、どう違うのかわからない。

能にいたっては、さらに何はなくても「まず、わからない」。

わからない、からいいんです。わからないことを見る。浸る。身をあずける。

とはいえ、お金を払ったら、それに見合うだけのものを得たいのが人情で、それに応えるようにWhen Where What Who Why Howの理解感、納得間、満足感を少しでも、と能の事前解説。

公演前に鈴木さんが司会して、早稲田大学演劇博物館から竹本幹夫さん、観世流から観世芳伸さん、チェコ文化センターからペトル・ホリーさんが説明をする。

「気持ちよくなったら、存分に眠てください」と、観世芳伸さん。

あのね、我が身のありかたを肯定されたようで、うれしかったよ。

というのも、歌舞伎でも、平家物語の琵琶平曲でも、説教節でも、僕は文語が好きなんだね。そこに、節がつく。すると、マッサージされてるように気持ちよくなる。

謡の声と音が、はるか遠く先祖に至る天空のように感じられる。ブラームス

能のとっかかりは、有名な鞍馬天狗。天狗好きだからね。

牛若丸が鞍馬山にこもって、天狗から武芸百般の修業をする話があるでしょ? てっきり、牛若丸が山で修業中に、偶然天狗に出会うのだと思ってました。

能の鞍馬天狗は、両者の出会いを語る。

まず、山の僧が平家筋の稚児たちを連れて花見に出掛ける場面から。

舞などに興じていると、一人の山伏がズカズカと現れる。「ヘンな奴」と、一行は立ち去る。皆んなから、なんとなく除け者にされ、一人だけ残った稚児こそ牛若丸。

山伏に親しげに話かける。

寂しげな表情に同情した山伏は、彼を抱えて飛行自在に桜の名所を見せてあげる。別れ際、自分は鞍馬山の奥に住む大天狗であると告げ、雲を踏むように飛び去る。

翌日、牛若丸が長刀を持っていると、昨日の天狗が現れて兵法の奥義を伝授する。

平家追討の志がいつか成就することを約束して、名残惜しそうに天狗は消える。

簡素で薄暗い舞台に、天狗のきらびやかな衣装。鼓、笛、太鼓と、地謡の響き。詞章は聴き取れるようで、聴き取れない。聴き取れないようで、聴き取れる。

この、あいまさに酔っぱらう。

ワラワラ登場した稚児は、区の「寺子屋」活動で稽古をしてきた塾生たち。わからないことに参加するのは、チビッコも年寄りも同列だ。