意味のある写真が撮れないんです

・私はこれまで一度として「写真そのもの」に情熱をかたむけたことはない。

2月10日まで、シャネル・ネクサス・ホールでやってるブレッソン展の壁を読む。

・愛するものは、自らをも忘れる一瞬のうちに、被写体がもたらす感動と形状の美しさを記録する写真の可能性だ。

なぁんだ。僕も、ブレッソンじゃないか。

(そう思ってるシロウトは、多いだろうなぁ)

・そこに現れたものが呼びおこす幾何学だ。写真のワン・ショット、それは私のスケッチブックの一瞬。

写真集では、何度も見ていたブレッソン。「決定的瞬間」と名付けられた写真を撮った人。オリジナル・プリントを見るのは初めて。

なじみの写真が、たくさんありました。

・世界に「意味を与える」ためには、自分がファインダーを通して切り取るものの一部になっていると感じなくてはならない。

要は、好きなものを撮ればいいってこと?

・集中と感性、幾何学のセンスを必要とする。

写真の前に、画家の修業をしたから言える言葉でしょうか? 絵を描くって、ほんとに集中しないとできないからさ。

ロッシーニ

・つかの間の現実を捉えるために、すべての能力を一点に集め、息をとめることである。その時、画像をとらえるという行為は身体的、そして知的な喜びとなる。

知的かどうがは脇においといて、喜びであることは確か。

写真展の帰りに、東京駅の大丸のステッキ屋に向かう。

ステッキの展覧会と思ったら「それは、これから開催します」と、例によって会期を確かめなかったので、店内の商品を見て回る。

業界ではブランドの、ファイエを見る。1909年創業。セレブが愛用するステッキらしい。自動車が買えるくらいの値段のものもある。

内田裕也兄さんが、白髪長髪でステッキ持ってる姿を電車で見かけたことがある。握るところがドクロ。

店内には、いろいろなものがありましたが、僕はカエルが岩を登るヘッドが気に入る。

そろそろ、ステッキ持ちたいなぁ。でも、写真やってると両手が自由じゃないとダメだからなぁ。そこで、ひらめきました。三脚じゃなくて、一脚をステッキがわりにすればいいんじゃないか?

八重洲口に降りると、段ボーラーおじさんの集団がミーティング中。

さすがに、日本のセントラルステーションに巣食う紳士は、なりが違います。一人をカメラで追う。

「あの人、いくつだと思う?」と集団の一人が問う。

「80歳だよ。80で宿無しだよ。何がいけないと思う?」と重ねて質問。「さぁ?」。

「行政がいけないんだよ」。

貧しい行政という、つかの間の現実を捉えるために、すべての能力を一点に集め、息をとめることはなかった。

ブレッソンになれない理由がわかった。