民話コレクターには、下地があった
「森の妖精」が口癖の「森だっち」。
何かの仕事をやって藍染屋と知り合った彼女。そこは、本職のデザイン魂に火がついて、好きなお化け柄でオリジナル風呂敷を10枚作った。
内、一枚をもらいました。及川浩治。
西洋なら妖精、日本ならお化けか? なにしろ日本は八百万(やおよろず)の神がおわします国。ありとあらゆるものに、神が宿っている。
鍋・釜・しゃもじは言うに及ばず、ちょうちん・灯籠・火鉢にも。昔々から八百万の神がいますから、絵師たちは、思い思いにマイ・フェイバリット・ゴッドを描いた。
こんな風習を持つ日本人に、「いいね!」と感じた西洋人がいました。
ご存知、ラフカディオ・ハーン。小泉八雲。
明治期の地方習俗をルポルタージしたハーン。我が民俗学の泰斗・柳田國男先生も、ハーンの著作が先行研究にあったから。
と聞いて、國男先生はチャメッ気のある人だったんじゃないか? 学問の動機は、知識より気質。
ハーンといえば、「Kwaidan 怪談」。
お互い不自由な外国語。でも、そこはかみさんの小泉セツと身振り手振りでコミュニケーションしてまとめた「怪談」。
なぜここまで、ハーンは土地に伝わる話に夢中になれたか? 明治神宮参集殿であった、平河祐弘さんの講義で謎が解ける。
話は1850年の誕生に遡る。
父アイルランド人、母ギリシャ人。ギリシャで生まれるも、2歳でダブリンへ引っ越し。4歳で母はギリシャへ帰り、6歳で離婚成立。残された少年は、父親が大嫌いだった。
15歳で、左目失明。青年になっても背が伸びずチンチクリン。おまけに色黒。19歳で、アメリカ移住。
「当時のアメリカの『隅っこ』のほうで働くしかなかったんです」。
ところがフランスの植民地だったルイジアナでフランス語圏に関心が向き、仏領西インド諸島のマルティニーク島に渡る。
終始、サブカルの人。
支配者フランス人は、使役していた黒人奴隷が団結するのを怖れ、あえてアフリカ各地から集めた。そこで、まとめてフランス語を教えようとした。
覚えるのが「めんどくせぃ」奴隷たちは、くずして土着のフランス語を作った。クレオール語の誕生。
我がハーンは、雑種言語のクレオールの歌・民話を熱心に採集したのだった。寄稿したハーパース社のすすめで、1890年とうとう横浜にやって来たのです。
雑司ヶ谷霊園に眠るまでの14年間は、さぞ、我が意を得たりの歳月だったでしょう。