ヘタの生命力、親近感、包容力
我が家は朝日新聞をとってます。
政治家や財界人の似顔絵は、山藤章二さんが描いてます。顔の右か左下に手も描き込む。これ、章二画伯の特長です。
外出先で違う新聞を読むと、違う人の似顔絵がある。「やっぱり、山藤章二はおもしろいなぁ」と感心する。
メリハリがあって、本人の性格や話し振りを感じさせる。まるで、十年の知己が筆をとったように描ける。
「美大出身だから、絵がうまいのは当たり前でしょ」と考えるのは、大きな間違い。文人画のように、世間を疑い、ナナメに見て、嘆息とも皮肉とも思えるセンスを持ってないと、こうはできない。
1970年代、野坂昭如の小説の挿絵を描いてました。文章から離れた、挿絵だけの境地。文章を離れて、小説家をからかうセリフ入り。以前も、以後も、こんな挿絵画家はいません。
ずっとファンでした。「ヘタウマ文化論」岩波新書を読む。「へたなのが、うまい」「わざと、へたに描く」。
デッザンに明け暮れて、でも、「絵がうまくなる」ことに羞恥があった人。「うまい」と「へた」の価値観しかなかった時代に、「おもしろい」で評判のデビューを飾る。
これ、曰く言い難いニュアンス。
ファニーとか、ユーモラス。加えてアトラクティブ。ままインタレスティング。よくエンタテイニング。
最近の言葉でいえば、ゆるい・ぬるい。このデロデロ感は、落語国の独壇場です。でもね、これ警戒しないといけません。
もともと落語は、都市の文化なんです。縁のない他人同士の生活群像。いわゆる、気持ちが田舎者じゃ「おもしろくない」んです。
高輪で、章二画伯を見かけました。高級住宅地で、ジーパン姿で買物袋を下げていた。都会人の恥じらい、無力感、挫折感あふれる顔だった。
これがなければ、ヘタウマが描けないんだなぁ。