30年経って、陰影が亡くなった地方

生誕100年記念で今年脚光を浴びてる人は、写真家のロバート・キャパとか、デザイナーの中原淳一

本が山積みになってるし、POPも100年をうたうからね。関連の展覧会なども開催されるし。

寺山修司の場合は、今年が没後30年。1983年に、肝硬変で亡くなった。5月4日だったんですねぇ。

渋谷でポスター展が開催され、世田谷文学館でもイベントをやってました。

「僕の職業は寺山修司です」と答えるのが常だった。マルチタレントのはしり。それまで、肩書きが一つに慣れてた世代には、いかがわしい存在。あれから30年経って、いろいろなことに手を出す人がほんとに増えたと思う。

それは、うれしい。

彼は青森の出身です。外国に住めば日本を意識するように、上京すれば、「売り物」は地元ということになる。中央に対して、地方。

渋谷にできた「天井桟敷」を大学時代に見る。本人は、演劇の新奇さを出したかったのでしょう。僕には、「一生懸命、奇抜さをアピールしてる」というところが奇異でした。

つまり、田舎を「加工してる」と思ったんです。

映画を見ても同じ。障子のセットだったり、イタコがいる恐山のシーンだったり、侏儒が出てきたり。それを同世代が「新しい」と騒ぐのが理解できない。

「書を捨てよ、町へ出よう」は若者のバイブルで、僕はその頃から本を読み始めた。やっと。

彼が作詞した「時には、母のない子のように」。これは、ヒッチハイクしながらよく聴きました。

東京に出てどれだけ脚光を浴びても、一生、母親という暗黒から逃れることができなかった詞でしょうか。