こうして、話す事がなくなる

・宗助の家は横町を突き当たって、一番奥の左側で、すぐ崖下だから、多少陰気ではあるが、、、。

これ、夏目漱石の「門」に出てくる主人公の家。

崖下の家といえば、明治23年頃に樋口一葉さんが住んでいた本郷・菊坂のあたりが思い浮かぶ。今でも、木造家屋が立込んでる。

現在、朝日新聞では100年前の漱石「こころ」を連載中。

切り抜いて貼付けられるように、販売店で「こころノート」もくれる。ところが1冊39回分しかページがない。連載は100回以上だから、3冊いる。

平日は、毎日読み終わると切り抜く。とうとう2冊目に突入した。

大学生の私が先生と出会い、先生の家に出入りするようになり、先生から少しずつもれてくる過去の話。

毎日、「明日はどうなるんだろう」という楽しみ。あえて、単行本を買わない。

400字詰め原稿用紙で4枚前後の量だから、すぐ読み終わる。

もの足りないので、「門」新潮文庫刊も読み始めた。こちらは1章あたり10枚前後の量。新聞連載時は、2回で1章分だったのだろうか。

・世の中に片付くなんてものは殆(ほとん)どありゃしない、、、。

希望がない代わり、絶望もない。これが、「三四郎」「それから」「門」と続く前期3部作。若者から中年へ。

そして、後期3部作が「彼岸過迄」「行人」「こころ」とつながっていく。

後期になると、混迷の度合いも深まる。最後に自伝的小説「道草」、絶筆「明暗」まで5年しかない。

もし文学青年で、すべてを文学研究するつもりで単行本で読んでいたら、まったく違う感慨をもったろう。

若さは、因果関係がハッキリしない事をめんどくさがる。

学生時代の友だち野村君は、漱石が大好きだった。一見仲がよく見える夫婦の、でも微妙に交わらない中年夫婦の小説。老いの予感を、20歳で読んでいた彼。

Ki Slamet Gundono