港区歴史観光 港区産業振興課
安政の大獄の井伊直弼の銅像が立つ公園を、掃部山公園と呼ぶ。横浜にある。
事情を知らずに掃部山公園を訪ねれば「この公園、なんて読むの?」だろう。僕もそのクチ。
かもんやま。直弼さんの官位が、かもんのかみ掃部頭だったから。
どんな官位かといえば、宮中行事での各種設営を担当。普段は殿中の清掃業務を仕事にする。律令国家時代の呼称。
先祖の名誉を子孫に伝えるほど名誉ある肩書きなのか。
江戸時代は海に面して不動山と呼ばれ、明治に鉄道が開通すると技師の官舎が建って鉄道山。
それを旧彦根藩士が買って井伊家の地所になり、名付けて掃部山。イージーに彦根山としなかった。
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港区は東に浜松町、西に表参道。北は赤坂見附、南は品川。
赤坂6丁目には、勝海舟の家の跡が2つあった。
安政6年37歳から明治元年46歳までの家。6−10−39。史跡名「勝海舟邸跡」。
当時の履歴。
・咸臨丸艦長で渡米時は、軍艦操練所教授方頭取(きょうじゅかた とうどり)。
・帰国後は蕃所調所頭取(ばんしょとりしらべ とうどり)、講武所砲術師範、軍艦操練所頭取、軍艦奉行。
西郷隆盛と江戸城無血開城の会談をした3月、6−10−39の屋敷から出勤した。時に慶応4年。7月には徳川慶喜に従って駿府(静岡県)に引っ越し。そして明治元年。
2つ目の史跡は「勝安房(あわ)邸跡」。6−6−14。こちら、明治5年から32年に死去するまでの家。
旧幕臣ながら大いに取り立てられ、最後は枢密院顧問官。伯爵にもなる。
江戸時代は麟太郎(りんたろう)、明治維新後に改名して安房になる。本人は「アホウ」とも読めると、言っていた。
現在、氷川という地名は消えたが、「氷川清話」を口述した6−6−14。
5月22日、「赤坂子ども中高生プラザ」のうさぎさんグループにいる孫は、ここでお誕生会をやった。「勝安房邸」跡地で。