直接指示する実務家肌だった、吉宗


鯉は鑑賞魚だとばかり思ってましたから、長野県佐久で鯉料理を知った時は驚きました。

「ペットを食べちゃうの?」みたいな感覚。

鑑賞といっても、平民が楽しむじゃない。お金持ち、お大臣、お殿様。

田中角栄首相が、目白の自邸の池で鯉を飼ってた。靴下をはいて(ここ、はずせません)下駄をつっかけ、パラパラ餌を撒くシーン。鯉には、そんな「なんだかなぁ」がよく似合う。

ブランデーとペルシャ猫とガウンの3点セットと同じ。お約束のアレレな記号。好きです。

以上、鯉を見ると連想すること。

TV「暴れん坊将軍」が、吉宗のこととは知りませんでした。時代劇見ないもんで。「吉宗も鯉が好きだったかなぁ?」と。

今、上野では「上野の山文化ゾーンフェスティバル」が開催中。一環で、寛永寺で講演「八代将軍吉宗」がありました。

芝・増上寺と共に、寛永寺は徳川家の菩提寺。綱吉や吉宗の墓があります。と知ったのは、40歳すぎてから。我が母校・上野中学のとなりにある。

寺は、都合のいい遊び場でしかなかった。

墓地の周囲は2mを超える灯籠がならび、笠の上をピョンピョン跳んだりしてね。おかげで、寺院物件・意匠にかしこまりもせず、忌み嫌うこともなく、むしろ愛着と親近感が強くなる。

講演者は、寛永寺長臈の浦井正明さん。長臈って、どんな役職なんだろうか?

大学、大学院まで行って吉宗を勉強したらしい。13日は、その成果「吉宗関係年表」を受付でもらう。12ページありました。

それにしても、狭い。

会場は、寺の大書院。大広間です。そこに、座布団の海。年寄り相手なんだから、椅子にしてくれないと腰が痛くなるぜ。それに、隙間なく敷きつめられているから、狭いこと狭いこと。

講演前に、苦しい姿勢で年表を読む。将軍の60歳代。

62歳で隠居。前年の現役時代に神田に天文台を設置、隠居後も佐久間町天文台をつくる。

彼の開明性、実学好きがわかる。

66歳の時、森田座で「仮名手本忠臣蔵」初演。下評を聞いて、何を感じたでしょうか? 

忘れもしない47年前、18歳の時に殿中松の廊下で刃傷事件。19歳の時、赤穂浪士が討ち入り。20歳に、大石良雄切腹

現代なら、高校・大学時代の思い出。

「1時間の講演ですから、すべてを話すわけにはいきません。本日は、将軍になった背景の話を重点的に」と始まる。

家康の9男が義直で尾張家を興す。10男・頼宣紀伊家。11男・頼房が水戸家。ご存知、徳川御三家

初代家康から七代まで、なんとか直系の本家でつながっていた将軍職。そこに由々しき事態発生。

七代家継が将軍になったのは5歳。元々病弱だったから、「八代をどうするか?」が喫緊の課題だった。

そこで、分家の尾張家と紀伊家が跡目相続争いになる。

お互いに血縁の正統性を主張し、取り巻きが暗躍する。そして、33歳の5月1日に八代将軍なったのが紀伊家の吉宗。

彼は、和歌山生まれながら、育ったのはニューオータニのある赤坂・紀尾井町。幼名は、源六ちゃん。

分家出身の将軍ですから、危機感あったでしょうね。ばか殿ではいられなかった。

まず、家の「正統性」を確立することが肝要。清水・田安・一橋の御三卿制度をつくり、結果として幕末まで体制を維持できた。大成功。

仕事もしなければいけない。

年表遊びをしてると、司法と警察と情報収集に熱心だったことがわかる。

町奉行大岡越前を登用する。御庭番を設けて諜報活動させる。人口調査・耕地調査をする。目安箱を作って民意を集める。

優秀な人材は、地位にふさわしい禄高をオンしてでも就かせる。

経済では、とにかく新田の開発。なにしろ大飢饉と打壊しの時代でした。

小石川養生所を建てて、薬草開発や無料病院も開いた。隅田川飛鳥山・御殿山・中野に桜・桃の木を植えてレジャーのご提案。

そして、毎年の江戸大火に「いろは四十七組」町火消組合を創設。盛んに、土蔵・瓦屋根を奨励もする。

趣味は、鷹狩り。

江戸時代のアイコンは、吉宗時代と重なることが多いね。

「こんなに仕事をした将軍は、他にいるんですか?」

「やろうとした人はいます。でも吉宗ほどはしてません」と、寛永寺長臈。