日曜午後、小名木川の南側を歩く
幸先のいいスタートでした。
「東京に対して、西の京だから西京です」。なんて屈折した言い方だろうと感心すること、しきり。
江東区にある砂町銀座商店街の魚屋で。鱈の西京漬けが売られてて、好きだから購入。
「西京味噌で和えたから」のネーミング。西京とは、京都の別称とは知らなかったよ。ということは、明治維新後に生まれた言葉だね。
都営新宿線・西大島駅で降りて、余裕があったので小名木川を渡り、商店街で時間をつぶし、砂町文化センターに着く。
ここには、2〜3回柳家小三治師匠の落語を聞きにきました。
18日にセンターが実施した、「波郷のいた町を歩く 砂町歴史散歩」。申し込んだ時は、20名の定員いっぱいで、キャンセル待ち。毎年やっていて、例年すぐ定員になるのだという。
後半の「砂町歴史散歩」をしたかった。幸い、キャンセル人が出たので参加できた。
受付で、「『はごう』のいた〜」と告げると、「『はきょう』ですね。石田波郷です」。昭和21年から、12年間を砂町で暮らした俳人。
案内する人は、中川船番所資料館の久染健夫さん。
物流運河だった小名木川の南側一帯が砂町。砂町は、清洲橋通りをはさんで、北砂と南砂に分かれる。
海岸に近いから砂町と呼んだんだろう、と思ったら大きな間違いだった。
江戸時代、相模の国から来た砂村一族が、海岸を埋め立てて作った新田が、現在の南砂。北砂は、新田もあるけど、基本は小名木川から陸揚げされた荷物の倉庫街。つまり、大名家の下屋敷地帯だった。
おさえておきたい、砂町ベーシック。
今回、歩いたのは北砂。俳句の話は一切なしで、ひたすら社寺巡りをする。
庚申塚(こうしんづか)って、耳にしたことあるでしょ?
「これが道教の風習から来ている、庚申塚です」と久染さんの説明。
この人、全身からキュートなオーラが出てる。「話のすべてを彫ってある塚も珍しいです」。
・人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)。人間が寝ている間に、三尸虫は天帝にその人間の悪事を告げ口する。
・そこで、人間は対抗手段を講じる。虫が、報告しに行くのを防ぐため、庚申の日は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀る。徹夜で勤行をしたり宴会をしたりする。
そんな、底意地悪い虫が体にいたの?
上から順に、天帝、天の邪鬼を踏みつける青面金剛。下に、庚申の申 = 猿だから、三猿がいる。ハイドンのバイオリン。
どうせなら、三尸虫もデザインしてほしかった。
砂町を南北に分ける清洲橋通り。
元々は、境川。新田開発や船入りのために、計画して作られた川。関東大震災後に埋め立てられた。
通りに面して、石田波郷の家があった。彼は、町を散歩して俳句を詠んだが、写真もよく撮った。
下町を襲った、東京大空襲の面影が残る一帯。焼け落ちた堂宇。神社境内でのラジオ体操。道路の水たまり。
水盤、力石、灯籠。法師が断食し入定(にゅうじょう)した入定墳というのも見ました。
町めぐり最後は、妙久寺。
10人ばかりが、木刀を振っている。寒天の夕暮れに、気合いの入った声がこだまする。中には、女子高生ほどの子もいてりりしい。
見ているだけで、気持ちが掃除されるようだ。
久染さんの墓地案内で理由がわかりました。ここに、近藤長裕が眠っているのです。
・天然理心流の開祖。文化4年没。両国薬研掘に住んでいた。同流の4世が、近藤勇。
「流祖を供養するため、演武に参りました」と、試衛館主の高鳥天真さん。普段は、四谷で稽古をしてる。
僕の居合い道場通いは、1ヶ月で挫折しました。キモチ、チクリとする。