「音だっち」ツネツネ3分の1

高校・大学が一緒だった「学だっち」から、シンポジウムをまとめた資料が送られて来ました。

Educationは教育。

「教育」と訳したのは、一橋大学創設者で、初代文部大臣で有名な森有礼でした。

大久保利通は「教化」と訳し、福沢諭吉は「開発」の字をあてていた。

どちらさんも、西洋事情通です。輸入された言葉を表意文字でどう表すか、悩んだでしょう。

シンポジウムは、大学業界の人々が集まって「教育」について発表してました。

大学人は、ほっとけば「研究」に傾きます。オオザッパに言えば企業のR&Dです。まぁ、加えて製造部門。関わる人は、知識欲や改善意欲が満たされるから楽しいです。

「研究」という製品。

ところが、大学が乱立すると組織として生き残れるかが問われる。

入学者を確保し、4年間中退者を出さないように。

企業で言えば集客でしょう。あるいは、販売部門。これは、人が相手だからほんとに手間がかかりホネがおれます。

「教育」という商品。

なかでも、前半2年間の一般教育・教養課程。「なぜ、『パンキョウ』は評判が悪くなったか」と自問してました。

そりゃそうだ。

僕の場合、限定。

・自宅通学で、「東京という新世界への野心」がない。

・大学は、高校で聞いたようなことを教える。

・将来像は、もちろん無い。

中教審は「人間社会・世間・世界・人生を知らない若者」に、大学が教養教育課程を軽視していると危機感をつのらせる。

その「若者」とは、僕のこと。

高校生の内、全国平均で半数が進学する現代。まぁ首都圏・阪神地区限定なら、ほとんどが大学に行くってことでしょ? 行かないほうが希少価値。

僕のようなボンクラ18歳が大挙して大学にあふれるは、な。

つまり、「必要を感じない時」に「これ、いいよ」と薦めるつらさが大学にはある。

だからね、せめて「必要を感じた時」に大学は開かれていると認識したほうがいい。

なぁ〜んて考えつくのは、親が払った授業料も、まんざらムダじゃなかったのかな?

ムリ・ムラ・ムダを経由してもムリ・ムラ・ムダは無くならない。

去年から、ご当地ソング流している駅が増えました。

地下鉄・上野駅。「電車がまいります」のアナウンスに合わせて流れてきた森山直太郎兄さんの「さくら」。思わず、歌っちゃいました。

「音だっち」ツネツネが去年教えてくれた曲。

なくした時間を惜別するのは、高校生や大学生の専売特許じゃないと思うんだけど。