ビゴーで、ご同輩遊びをする

人類は、時刻表や地図やスペックを読むのが楽しめる人か、そうでないかに大別されます。僕は、そうでない人に人生相談はできない派です。

同じく年表も。ひたすら、読む。眼球の移動が目的。

どれも、たいがい横組の本です。今回、初めて縦組の年表本を読みました。「ビゴーの150年 異色フランス人画家と日本」清水勲編著。

中学生の歴史教科書で、日清日露戦争あたりのページに、彼の挿絵が出てくるはずですが、覚えてますか?

出て来る日本人は、必ず丸メガネをかけ、頬が高く、出っ歯でチビ。以来100年余、この類型のプロトタイプを作ったビゴー。

似てるんだから、憤慨しないで笑いませう。

このビジュアルは、彼の風刺画で登場します。書籍・新聞・雑誌・絵はがき等マスメディアの挿絵で使われたので、波及効果が絶大でした。

日本でもフランスでも、日本人といえば、このアイコンと。

ところが一方、エッチングリトグラフもやっていて、こちらは、純粋に「異人さんの画家の目」で日本の風俗と人を正確にスケッチしてます。

これが、後に時代小説家に役立つ資料となったんですね。

なにしろ、写真が貴重な時代。登場人物の背景になくてはならない時代の空気の描写は、彼が残した絵に頼っていた。

と、この年表を読んでわかりました。



ジョルジュ・ビゴーさん。1860年(安政七・万延元年)の生まれ。

フランスはナポレオン3世の時代、風刺画家フィリッポン没。

同時代の画人には、アンリ・モニエ、オノレ・ドーミエ、カラン・ダッシュ、トゥルーズ・ロートレック。1世代前にはゴーギャン、モネ、ルノアール

一方、日本は3月に桜田門外の変

同時代人には、坪内逍遥森鴎外黒岩涙香、津田梅子。柔道の嘉納治五郎や政治家の後藤新平、教育者の新渡戸稲造

彼8歳の時に父は死去。11歳でパリ・コミューンの市街戦の殺戮を見る。12歳でエコール・デ・ボザール(国立美術学校)入学。16歳で家計を助けるため、学校を中退して画の仕事を始める。

そして、とうとう1882年(明治15年)1月26日に横浜に着く。

その時22歳。10月26日には陸軍士官学校画学教師になる。陸軍卿大山巌が裁可したんですねぇ。

その後は、フリーランスになって日本では「郵便報知新聞」「団団珍聞」「トバエ」「改進新聞」に、フランスでは「ル・モンド・イリュストレ」「ル・シャノワール」「ザ・グラフィック」に掲載されるようになる。

あの、教科書に載っていた「朝鮮をめぐる日清露 漁父の利」は、1885年(明治18年)25歳の時に描いてました。日清戦争の目撃者。

1899年(明治32年)6月20日、39歳で帰国の途につく。直前に、日本人のマサさんとの離婚手続きを、横浜のフランス領事館ですませた。




1927年(昭和2年)67歳、パリ郊外の自宅庭を散歩中に心臓発作で死去。そして、第6〜8章で、現在に至るビゴー評価を年代記とともに追いかけています。

清水勲さんは、漫画の研究家です。

画の研究も、国情や戦争や政争、そして文学に影響したりされたりを調べていくと、時代というものが浮かんでくるんですねぇ。

大佛次郎「幻燈」が、ビゴーのスケッチを解読して著かれたって、この時代を描く小説が好きな僕は、なんだかパズルが解けたようでうれしい。

坂本龍一兄さんのNHK番組「スコラ」で、彼が3人の作曲家をとりあげていました。

ドビュッシー  1862〜1918
サティ     1866〜1925
ラヴェル    1875〜1937

ビゴーは彼らの音楽をリアルタイムで聴いていた。どう感じていたんでしょうね。